令和8年 松平重信と西光寺蔵「御前講誌」の解説
1、西光寺蔵「御前講誌」
「御前講誌」とは、高松藩初代藩主である松平頼重(高松藩初代藩主は、水戸藩主・徳川頼房の長男)
の御前での講義についての古文書です。
中身は、二通の古文書を一つにまとめており、
1)竹井西庵 書状 聖通寺宛(延宝 2年、1674)2月2日付け
2)於聞徳庵講解之列衆 (享保17年、1732)6月下旬 専玄師
1)に2)を加えて巻子にまとめられました。
→寺に伝来していた1)の由緒と西光寺 幽玄住職の徳を後世に伝えるため
「御前講誌」と名付けられているが、「竹井西庵書状」が主となる資料となります。
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「西光寺御前講誌」について、先住職の喪中により藩主の前での講義の延期を申し出たことについて、
松平頼信から「御構も無之」との返事をもらったことを伝える。
→江戸時代当時、喪中での禁忌は厳密であり、藩主の御前での無礼を心配
「聖御院(京都の寺)においても入峰(亡くなった)されて御構もなんの問題ない」と西光寺へお伝えください」
聖御院:皇室の方が出家して住職を務める、山伏(修験道の実践者)の寺
・西光寺→聖通寺→竹井西庵→松平頼重 のルート
竹井西庵-詳細は不明、頼重の信任を受けて重用された家臣の一人、寺社関連を担当したとみられる(寺社奉行)
法然寺(高松藩 松平家菩提寺)創建の中心人物。
・具体的な資料の少ない竹井西庵の政治的な位置を示す貴重な資料
・高松藩内の大きな寺社や儒教学者に講義をさせたことが分かる
2、松平頼重の学問
・「御前講誌」の「御前」は松平頼重の前
・延宝元年(1673)、頼重より高松藩内の主たる寺社に「講釈」をすることが命じられる。
・最初に命じられたのは、白鳥宮の宮司・猪熊千倉(頼重の招きで讃岐へ来た)
・以後、次々と寺社の住持・宮司が呼ばれ頼重の前で講釈を行う。
→宗派を超えた集まり
頼重のにではなく、重臣たちも一緒に聴講
・同年、頼重は高松城を出て、栗林荘(栗林公園)へ移る
→藩主ではなく、隠居した立場での行動
・宗教に関してはなしを聞くというよりも、学問として学び、研究する姿勢
・領内の寺社統制-御前での講義という栄誉を与える→頼重-高松藩への服従
・頼重からの招き→幽玄住職の学識への高い評価→お寺への栄誉
西光寺への葵紋七條袈裟(現存)などの下賜→寺の位置づけを高める品として重視
・頼重と西光寺
高松 成願寺(松平家の高松城下菩提所、宇多津町から移転)の桜門を西光寺に移築
頼重の逆修位牌(生前に作られた位牌) 道晃法親王筆 所蔵
→頼重の独自の宗教編成
■【なぜ二巻を一つにまとめたか】
藩主の前で講話するほど徳の高い住職がいた。
後の住職が記録を捨ててはだめだと巻物をまとめた
■【聖通寺(真言宗)の関係】
江戸時代当時、宗派を超えて地域のお寺を取りまとめていたお寺と推測
→聖通寺を通じて、頼重公ルートへお伺いをしたのでは
■【他の藩においての御前講誌】
全国的にも実施されていたのでは
松平頼重の行った御前講誌は大規模
お寺と藩主を繋ぐ重要な資料ではないか。
同様の資料が何通も残っているわけではない。
貴重な資料となるため、今後も寺宝として大事にしていきたいと考えております。















